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雌伏期1960~1968

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2輪車の競争激化で無配へ転落富士電機製造傘下に入る 2輪車の競争激化で無配へ転落富士電機製造傘下に入る

赤字決算、無配に転落

1960(昭和35)年9月期、当社は赤字決算となり、無配に転落する。以降、欠損が続いた。これは、主力であった自動2輪車部門で製品の優秀さにもかかわらず、競争激化と販売力の弱体さ、コスト高などにより利益率が悪化したのが主因である。

戦後、「トーハツ最良の年であった」と言われた1955(昭和30)年と、この頃の業績を比較するとピークから4年で売上は20%以上増加したが、利益はマイナスに落ち込んだ。さらに、この要因を探るため、損益計算書にて、1960(昭和35)年4月~9月の売上原価を、1955(昭和30)年4月~9月のそれと比較すると、10ポイント近く上昇していることが分かる。

この頃、日本経済は岩戸景気に突入し、産業界は2桁成長に沸いていたが、一方で、企業間格差が広がっていたのも事実である。つまり、2輪車業界ではエンジンという製品の基幹部分の性能・品質だけで市場をおさえることができる時代は去っていた。総合力、言ってみればマーケティング力が必要な時代が到来していたことは明らかだった。

こうした総合力、マーケティング力は企業の中から生まれる。いわば風土がベースになっている。

経営陣の退任、富士電機製造に経営を委譲

1960(昭和35)年9月期の事業報告書に「日ならずして相当の利益勘定に転換しえますことを確信いたしておる次第」と書かれた同年11月からわずか1カ月後の12月、赤司社長以下の経営陣は、当社株式の16%以上を所有していた筆頭株主である富士電機製造株式会社に経営を委譲し、新たに金成増彦会長、福島秀次郎社長の体制となった。以前からの経営陣ではわずかに曽根健哉取締役・技術研究所長が留任し、間もなく常務に昇格した。この新体制は正式には翌1961(昭和37)年2月7日の臨時株主総会で承認された。

苦境の中で健闘した製品群 苦境の中で健闘した製品群

農耕エンジン

2輪車の不振によって経営体制の変更を余儀なくされた当社だが、昭和30年代前半に2輪車以外の分野でも製品を世に送り出している。

T60A型T60A型

消防ポンプと、船外機については日本における黎明期を当社が担ったことは既に述べたが、そのほか、農耕用エンジンに触れなければならない。農業用エンジンは終戦直後の1948(昭和23)年に生産を開始しているが、2サイクルエンジンを農業機械化に役立てるため、まず1956(昭和31)年5月に空冷2サイクル・3馬力エンジンを開発、耕運機としてのテストを行った。続いて翌1957(昭和32)年1月に超小型エンジン「T42C-2型」を発表、小型耕運機メーカーであるトーハタ株式会社より大量の受注を獲得した。トーハタ株式会社は1944(昭和19)年4月に青森、岩手両県の蓄力農機具製造会社が合同で、東北畑作農機株式会社を創立したのが始まりである。当時の本社は、岩手県盛岡市に、工場を青森県七戸町に置いた。

1952(昭和27)年、東畑農機株式会社と改称した後、1957(昭和32)年12月には当社と資本技術提携を行い、翌年には、本社を東京都板橋区志村に移転した。

1967(昭和42)年、本社を再度青森県七戸町に移転し、1972(昭和47)年トーハタ株式会社と改称する。

1957(昭和32)年の「T42C-2型」に続き、翌年の1958(昭和33)年4月、農耕用の空冷2サイクル・4~5馬力エンジン「T60A型」を発売した。

「T42C-2型」「T60A型」のいずれも小型軽量で出力が大きいため、日本の農業の機械化を支え、人気を集めた。

圧倒的シェアを誇った船外機

一方、船外機も戦後15年しか経ていない当時は、マーキュリー、ジョンソンなどの海外製品はぜいたく品で輸入禁止品目であり、外資の割り当てが許可されなかった。そうした中で当社は、以下に示すように圧倒的なシェアを確保していた。

船外機の生産実績(1959~1962年)
メーカー 1959 1960 1961 1962
トーハツ 1983 5359 9852 8566
ヤマハ     2859 4158
ヤマト 734 931 1042 705
トキワ 15 260 438  
ミクロ 144 31 55  
キヌタ 45 3    

注:(運輸省船舶局発行「船外機産業のゆくえ」より)

当社以外の中小メーカーはレジャー用の海外製船外機を手本にしていたため、外観は良いものの、漁業用には使い勝手が悪く、耐久性も低いものが多かった。食糧難の時代が終わり、人々は食にも質を求め始め、新鮮な魚を持ち帰るために漁船のスピードが必要であり、漁業にも機械化の波が押し寄せていた。当社と大手メーカーが船外機に参入したことで、昭和20年代からの中小メーカーのほとんどは消えていった。

会社更生法適用へ 会社更生法適用へ

会社更生法適用へ

1964(昭和39)年2月末の手形決済の見通しが立たず、2月24日、本社会議室において取締役会を開催し、会社更生法に基づき更正手続き開始の申し立てを行うことを決議した。

当日、東京地方裁判所に更正手続き開始の申し立てを行った。また、同日付けで保全命令申し立てを行い、4日後の2月28日に保全命令が出された。

その後、5月27日に公正手続き開始が決定され、当社は更正会社東京発動機株式会社となり、管財人・藤掛善蔵が選任された。

藤掛善蔵は戦前、台湾に設立された大成火災を再生した人物である。

会社更生法は、経営は困難となるが、再建の見込みのある株式会社について事業の維持・更正を目的として会社の更正手続きを定めるための法律である。戦後、米国の制度を倣って日本に導入された。

激化する労働組合活動 激化する労働組合活動

激化する労働組合活動

冷凍機器冷凍機器

岡谷工場は船外機や冷凍機器を主に製造していたため、会社として事業を継続することはどうしても必要なことであった。しかし、モーターサイクルを中心とした志村、前野、坂下の各工場は、ほんの一部のポンプ部門を残して生産中止、工場閉鎖となり、これまで平穏であった労働組合活動は一気に激化した。

そこで組合との間で解雇撤回などを内容とする協定を結び、ようやく、裁判所から更正法手続き開始の決定を受けることとなった。

1968(昭和43)年1月に近代的労使関係の形成を目的にした新しい組合・東京発動機東京工場労働組合を結成した。この新労によりそれまで岡谷工場で生産していたポンプを東京工場で生産開始し、中止していたエンジンの生産も始まった。

この年の11月25日、東京都労働委員会による斡旋により組合と会社は和解し更正計画が滑り出した。

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