成長期

成長期 1945~1959 戦後の日本を支えた優良企業

戦後いち早く民生用エンジン部門を強化 戦後いち早く民生用エンジン部門を強化

終戦で工場閉鎖

1945(昭和20)年8月15日に日本は連合国に無条件降伏し、太平洋戦争・第2次世界大戦は終結した。広島・長崎に投下された原子爆弾の被害は人類が初めて体験したものだったが、同年3月10日の東京大空襲も、世界史上稀に見る都市戦災であった。米軍は日本の軍需産業の壊滅を狙い、東京市街地と市民そのものを標的に超低空飛行で焼夷弾を降らせ、8万人以上が焼死、東京の3分の1を焼き尽くした。

しかし、板橋・志村町にあった当社の本社工場は幸いにも被害を受けず、無傷で残った。

終戦と同時に当社は生産停止の命令を受け、軍需会社の指定も取り消しとなった。当時、志村工場に1,500名、岡谷工場に300名が就労していたが、一時的に職を失い、皆ぼう然自失の状態だった。とりあえず8月末に工場をいったん閉鎖し、再起を図ることになった。

国鉄向け軌道用モーターカーと漁船用発動機で再開

しかし、当社の工場再開は早かった。大方の日本人が終戦と同時に焼け跡からたくましく立ち上がったように、志村工場も1945(昭和20)年暮れには準備に入り、翌1946(昭和21)年1月には生産を再開する。

工場内の整理、機械類の手入れなどに手間がかかったが、とりあえず食糧難に対応し、手回し製粉機の生産を始めた。本格的な工場再開を果たすためには、軍需工場として膨大な仕掛品の山を抱えていたため、これを生かした新製品開発が必要であった。

VA-70型

そこで最初に開始したのが、戦時中軍需品の生産に追われて中止していた国鉄向けの15馬力軌道用モーターカーと漁船用の石油発動機の開発だった。

この国鉄向け軌道用モーターカーは水平対向=気筒(空冷4サイクル)で、1949(昭和24)年、GHQ(連合国軍総司令部)の指令によるインフレ防止経済政策により(金融逼迫・国家予算の大幅削減により)、国鉄から発注中止になるまで、当社の戦後の復興に大きな役割を果たした。

また、漁船用の石油発動機も月産70台程度の規模に達し、好評のため品不足状態になるほどだった。このほかに汎用動力エンジン(空冷2サイクル、3.5馬力「TBF-60型」)と揚水ポンプ(「VA-70型」)も生産を開始した。

国産初の可搬消防ポンプを開発

国産初の可搬消防ポンプ

さらに1949(昭和24)年、当社は、小型で持ち運びができる消防ポンプの第1号機(VC-50型、エンジンTBF-60、3.5馬力)を開発した。これはVB型揚水ポンプを改良して生まれたもので、同年10月、国家公安委員会の告示で「動力消防ポンプ規格」が定められたが、同機はその規格に準拠したものだった。

このように、当社は終戦後、日を置かずに民生用のエンジン部門を強化する方向へ進んだのである。

工場再開後5年で東証へ上場

経営体制では、1946(昭和21)年の役員会で、当社2代目の社長であった故・赤司初太郎の子息・赤司大介が社長に選出された。赤司初太郎は戦前、昭和製糖など台湾の産業界で活躍し、後に証券会社の経営にも携わった財界人であった。

また、1947(昭和22)年には岡谷工場も再開される。そして同年、本社を中央区京橋2丁目に移転した。当時は“ヤミ市”全盛時代で、敗戦の混乱が続いており、大企業でも経営は苦境にあった。しかし、当社は戦時中からの豊富な資材が在庫されており、これを活用することができた。また、営業面では専属営業網として東発産業株式会社を設置したほか、各地に代理店を置き、1948(昭和23)年には仙台出張所、1949(昭和24)年には大阪出張所を新設した。資本金は同年9月1,500万円に増資し、翌1950(昭和25)年1月には東京証券取引所への上場を果たした。

兜町も戦争の影響を受け、1943(昭和18)年には全国11の株式取引所を統合して「日本証券取引所」が設立されたが、当時は戦争の進展とともに株どころではなくなっていた。

戦後1947(昭和22)年、日本証券取引所は解散。一方で財閥解体により大量の株式が一般に再配分され、1948(昭和23)年には投資家保護を基本とする新しい証券取引法が制定され、1949(昭和24)年に東京証券取引所が誕生した。この当時、証券民主化がうたわれ、株式所有の大衆化が急速に進展した。

当社が上場を果たした背景には、こうした戦後の資本市場の状況があった。

発展の基礎を固めた可搬消防ポンプとモーターバイク 発展の基礎を固めた可搬消防ポンプとモーターバイク

国産初の可搬消防ポンプ

VF-50型VF-50型

終戦と同時に戦時中の軍需品を応用して民生用製品を開発し、とりあえずその日を過ごしていた戦後日本経済に最初の好況をもたらしたのは、1950(昭和25)年に起こった朝鮮戦争である。この特需により日本は急速に息を吹きかえす。

しかし、当社は朝鮮戦争以前、早くも1947(昭和22)年から1949(昭和24)年にかけて、その後の当社の方向を決める注目すべき製品を開発している。

その第一は可搬消防ポンプである。1948(昭和23)年に製作されたVB型揚水ポンプの設計を変更し、吐水量を減らし圧力を上げて、これに吸水用真空ポンプを取り付けた設計で、1949(昭和24)年秋に完成した。VB型揚水ポンプの軽便性に着目し、消防ポンプに応用することを勧めたのは、日本の航空発動機の権威として知られ、当時消防研究所に在籍していた東京大学名誉教授の富塚清博士だった。

同ポンプは我が国最初の可搬式動力消防ポンプで、検定規格合格の第1号機でもあった。

消防ポンプにおいては、江戸時代からの腕用ポンプを使用している市町村も多く、消防団も可搬消防ポンプに対する認識が薄かった。だが、実際に使用してみると軽量で放水能力が比べものにならないほど優れており、耐久性も富んでいることが納得された。このため、販売台数も飛躍的に伸びた。

さらに、1951(昭和26)年頃からはそれまでの啓蒙・宣伝運動が実を結び、ポンプ事業が好調になったため、同年10月に「VE-50型」を開発、同年11月にはワンランク上の「VF-50型」を完成させた。

この2機種はその後、各種の改良が加えられてシリーズ化され、「VEシリーズ」は1975(昭和50)年までの24年間に累計、1万2,677台が、「VFシリーズ」は1961(昭和36)年までの10年間に1万3,160台が生産され、大いに経営に貢献した。

「トーハツ・バンブル・ビー号」発進!

TFG-50型78ccTFG-50型78cc

当社の経営を左右した製品の第2は、TFL型バイク用エンジンである。当時、焼け跡に残されていた発動発電機用エンジンを修理して自転車に取り付けた乗り物が出回り始めていた。

同じ頃、当社は戦時中の車両無線電源、500W発電機のエンジン「TFG-50型70cc」の冷却ファン、ファンケース、ガバナーなどを取り去り、コーンクラッチ、リフター、バルブなどを付け「TFI型」として、また取付金具などが多少変わった「TKL型」として2輪車メーカーに納入した。

間もなく、独自に普通自転車に取り付けられるようにタンク、マフラー、取り付け金具、カバー類などをセットにしたものを「TFL型」として発売した。これは耐久性が優秀で、その後、オートバイ業界に躍進する原動力となった製品である。

「TFL型」は普通の自転車に取り付けたのでは車体が弱く、また乗り心地も良くなかった。このため、1950(昭和25)年春頃から自転車メーカーに特殊仕様の自転車を発注し、出張所や特約店でエンジンを取り付けて販売した。これが「TFM型」で、後に一世を風靡する「トーハツ号」の登場である。

2輪車は1951(昭和26)年の夏頃から需要が本格化し、自転車補助エンジンの時代から本格的なモーターサイクル時代に転換し始めた。当社は、「TFP型」(98cc)ではミッション一体型のタイプを新設計し、キックスタートを採用した。そして愛称を従業員から募集し、「トーハツ・バンブル・ビー号」(エンジン2サイクル98cc、2段変速)と名付け、高級車として販売した。なお、「バンブル・ビー」とは熊蜂のことである。

研究所を設立、渡邊博士を迎える

1950(昭和25)年1月、東京証券取引所に上場を果たした当社は翌1951(昭和26)年5月に、志村工場内に「東京発動機株式会社研究所」を設立する。研究所長には当時慶応義塾大学教授であった渡邊一郎工学博士を迎え、内燃機関の基礎研究に取り組んだ。渡邊博士は東京大学工学部卒、戦時中は航空機のスーパー・チャージャー(過給機)の研究に取り組んでいた。

戦後の設備改善と岡谷工場の改築

1951(昭和26)年頃になると次第に2輪車、可搬消防ポンプとも売上が上昇し、業績が向上する。

1952(昭和27)年から1953(昭和28)年にかけて戦後初めて設備の改善が行われ、倣い旋盤やターレット旋盤などの最新設備が投入された。岡谷工場はTH型、PA型2輪車エンジンの生産を担当していたが、老朽化が激しかった工場の一部を除きすべて新築することにし、1953(昭和28)年3月に落成式が行われた。この工場は当時、長野県下のモデル工場と言われた。

また、1954(昭和29)年秋には大幅な機構改革を行い、従来、岡谷工場長は志村工場長が兼任していたが、岡谷の専任工場長が置かれ、独立工場としての体制を整えた。

従業員もこの頃から毎年、大卒の新入社員を2桁規模で採用し、営業部門も急速に拡充していった。

1954(昭和29)年は自衛隊の発足した年でもあり、これによる発動発電機の特需も当社を潤した。

業界トップ企業へ 業界トップ企業へ

発展に向けて志村、岡谷工場を整備

1953(昭和28)年から1960(昭和30)年にかけて当社は、発展の助走期間に入る。世の中は1953(昭和28)年に朝鮮戦争が休戦となり、特需は終了。また、世界的な生産過剰による輸出の減退に加え、金融引き締めにより国内需要が沈滞するなど産業界は不振だった。

しかし、当社は1952(昭和27)年に2回の増資を行い、この資金を元に1953(昭和28)年、岡谷工場の建物の大改築と設備の改善を行った。

待望の「パピー号」発売!

パピー号 (60cc・TRF型)パピー号 (60cc・TRF型)

1953(昭和28)年の主な製品に、自転車用補助エンジン(原動機付き自転車)の「パピー号」(60cc、TRF型)がある。同年8月1日付けの社内報「トーハツニュース」には愛用のパピー号に乗る淡島千景さんの笑顔が掲載されている。5月1日の記事には「パピー号がいよいよ発売されました。まだかまだかと皆様から声援されたので、トーハツでは甚だ恐縮しているが、他方、海外からも引合が殺到している。これらの需要に応じるためにはよほど気合を入れて増産しなければならない」と書かれている。伸び行く企業の様子が垣間見える。

当時他には発動発電機300VA、防衛庁向けFDB発動発電機(4サイクル、2.5KVA)、消防ポンプ「VH型35馬力」などを製品化している。また、この年、外航船の消防用に日本で初めて当社の小型ポンプが搭載された。三菱日本重工業横浜造船所で新造された「光栄丸」で、航海安全条約に基づくものであった。

営業面では福岡、大阪、仙台営業所を支店に昇格させ、札幌営業所を開設した。翌1954(昭和29)年には名古屋支店、東京支店を開設した。

業界トップメーカーへ

1955(昭和30)年から当社は急速な発展を遂げる。この年、前半は金融引き締めのデフレ政策の影響が尾を引いていたが、後半からは輸出の急増に伴う消費景気の傾向を見せ始め、いわゆる“神武景気”につながっていく。日本経済は戦前の水準まで回復し、1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。

当社はこの年、2輪車、消防ポンプともにトップメーカーとなった。モーターバイクは第2次ブームを向かえ125ccタイプが主流となる。当社は「PK-55型」(125cc)が好調でさらに、「TH-55型」(200cc)、「PA-55型」(80cc、自動無段変速伝動式)にともなって生産は急上昇。需要の増大に生産が追いつかず、営業部は足りない製品を特約店に配分するのに苦心し、「毎日、納品の督促に来る特約店の応対に忙殺された」という。

パピー号 (60cc・TRF型)
  • PK-55型 (125cc)
  • TH-55型 (200cc)
  • PA-55型 (80cc)

これに対応し、当社は同年10月に資本金を3億円に増資する方針を固め、翌春から1億8,000万円の予算で志村工場、岡谷工場の設備拡充に着手する。岡谷工場には高能率の倣い旋盤を導入。志村工場にも最新の工作機械を導入。エンジン、車体の組み立てをコンベアー方式にし、また防音運転室も新設した。この年の2輪車のメーカー別の生産台数とシェアは表の通りである。

メーカー 台数 シェア(%)
東京発動機㈱ 72,462 35.5
本田技研工業㈱ 32,644 16.0
トヨモータース 16,180 7.9
みずほ自動車 8,226 4.0
昌和製作所 7,879 3.9
その他 66,986 32.7
合計 204,395 100.0

船外機へ進出

OB型(1.5馬力)OB型(1.5馬力)

船外機については、第1章で1935(昭和10)年に初めて開発したことを述べた。戦後では1956(昭和31)年、船外機「OB型」(1.5馬力)を生産、販売を開始する。同機は従来、岡谷工場で製造され在庫になっていた動力噴霧機用エンジン「TTM型」を活用するところから始まった。「赤シャッポ」の愛称で全国に販売されたが、販売は思うように進まなかった。

というのも、当時は船外機に対する漁業関係者の認識が薄く、「棹の方が速い」と言う人もいたほどだった。船外機が小型漁船用として脚光を浴びるようになったのは1959(昭和34)年以降である。

モータリゼーションでの戦い モータリゼーションでの戦い

モーターバイクの急速な不振

前述のように、1955(昭和30)年は「最良の年」であったが、絶頂は長くは続かなかった。1957(昭和32)年に入ると2輪車の販売のかげりにより、売上に対して利益が次第に低下するようになる。この時点で、モーターバイクの売上比率が全社の80%を占めていたため、この影響は大きかった。

そこで当社は、1951(昭和26)年9月期決算から続けてきた3割配当を、昭和32年6月期に2割5分に引き下げた。その後1957(昭和32)年9月期には2割配当に減額、1958(昭和33)年9月期には1割5分配当となり、1960(昭和35)年3月期8分、同年9月期以降は赤字決算となり、無配に転落した。

トーハツオートバイは実用性では優れてはいたが、当時、需要が増加しつつあった若年層を狙ったロードスポーツ車への変化に遅れを取ったのである。大手メーカーでは若年層をターゲットにしたロードスポーツ車を発表し、売れ行きも好調であった。

ランペットCA2ランペットCA2
提供:株式会社八重洲出版)

当社は、この遅れを挽回すべく1960年には、斬新的なデザインの排気量50ccロードスポーツ車ランペットCAを発売、当時このクラス日本最初の本格的スポーツモデルと評価された。翌年には、このモデルをよりスポーティーにし、当時盛んであったクラブマンレースに僅かな改造で参戦できるタイプのCA2を発売、この車はクラブマンレースを総なめにし、特に各地で行われていた、当時スクランブルレースと称されていたオフロードレースでは、出場台数の80%近くをCA2が占めており、この評価と独占状態は競合他社に大きな脅威を与えた。

トーハツスポーツLD3トーハツスポーツLD3

また、125ccクラスではトーハツ最初の2気筒エンジンを積んだトーハツスポーツLD3が発売され、これもデザインの斬新性・卓越したエンジン性能・前後輪に大径マグネシュウムブレーキを装備する等で注目を集めた。1962年には、市販レーサーとしてトーハツスクランブラーTR250(2気筒250cc)、ランペットCR2(ランペットスポーツをレース仕様にチューニング)を発表。1963年には道路交通法改正の情報があり、許可制で乗れることを見越し、当時の市販モペットとしては最も小型な排気量35ccベルBCを発売、デザインもユニークで婦人もスカートで乗れ、バイク感覚を味わえる車として注目を浴びた。また同年の東京モーターショーには水平対向2気筒90ccフルカバードスタイルのエンジンを含め全く斬新的なモデルを参考出品している。

ベルBCベルBC

1960年から連続的に発表された、これ等のバイクの評価は非常に高かったが時既に遅く、悪化していた経営状態を建直すことは出来なかった。

バイクの将来は、4輪自動車が普及すれば当然荷物を運ぶ実用車からスポーツ感覚で楽しめる乗り物に変わって行く事は誰にでも予測された事であり、当社も1957年には4輪を開発しようとし、その研究に着手していたが、既に経営の悪化が始まっており、本腰をいれる状況にはならなかった。

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